もう10年も前のことなのに描写が感情がリアル。吐き切れば薄まっていく?

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《しんぐるまざー》

もうタイトルを考えようとして書くのいったん止めました。まとまって考えれるようになったら整理しよう。
いまはノンフィクションのモノガタリのように書いていくしかできないようです。

離婚届けをもらった以後はもと旦那に会ってもいないし生存もわかりません

のにも関わらず、怒りや後遺症で10年苦しむ。
なぜ他人のために、そんな長い年月苦しむ必要がある? マインドシフトで幸せになろうとすることは自分の問題だけど、現実に影響している部分は避けられない事実であり。

その元凶であるもと配偶者であったり、おんなたち?が普通に健康に生活しているとすると、なんだこの10年、って思ってしまう。

人の人生プラマイゼロで、いいこと悪いことバランス取れるなんて話はいらなくて、だってきっと「わるいこと」「ひとに影響を与えてること」だっていう認識すらなく、そういうひとたちはやってきたはずだから。

いじめの加害者と同じかもしれない。された側は不安症なり引きこもりなり、いろんな弊害を抱え込んでそれでも生きているのに、きっと加害者は同窓会に覚えていないで現れるんだ。そんな感じ。

復讐する気もないけれど、そのひとたちのために時間を使うことない、幸せになりなさい、というのもしっくりはこない

だって、取られたエネルギー(相手が直に望んだかどうかは別として)やマイナスのこと、健康って、実際取られてる。それをもとに戻す努力をするのは取られた側です。

もちろん、怒りや憎しみだけで時間を使うようなバカなことはしない。っていうより、元配偶者やおんなに「怒り」はあっても「憎しみ」を抱くほど強く感情を持っていない。

状況、事実にだけ、責任は取らせたい気分にはなる。結局、無理がきかなくなって影響を引きずる自分は自分の責任でしかなくて、背負っていく。復讐したところで背負っていかなければならない事実は変わらないのだから、めんどくさい。関わること想像すること自体。

じゃ、どうこの現状変えられるの?っていったら普通になろうと闘ったり頑張ったりするしかなったわけで。幸せってなにかわからない。

ただただ眠くて、ちょっと頭を使っただけでおなかがすく(病的に)

ただ、もうあーもうダメだ、なんにも感情湧かないわーってなったあと、ただただ眠い今回。
そして、こうして吐くタイプの文字記載は大丈夫なんだけど、なにかをまとめたり考えたりするだけでものすごいブドウ糖を使うのか、血糖値が下がる感じになってしまう。

ほんとにちょっと纏めようとしただけで。あと、せっかく疲れすぎてあまり作業や生活のことできないから、片づけでもしようと思うと、体力の前に「どう片づけるか」とか考えただけでエネルギーをものすごく消費している。

いま、敏感だからわかるのか、麻痺させ続け過ぎたからなのか、こんなちょっとのことでエネルギー多大に使っているということは、普段どんだけ補給せずに、エネルギーを使っていたかって実感する。

そりゃ、うつとか関係なかったとしても、エネルギー切れになるわ、と。食べることだけがエネルギー補給じゃないけど、ここ10年くらい餌のように動ければいい最低限のものしか食べてこなかったし、こころの栄養っていったらたぶん、たまに映画とか見るとかコンビニスイーツとか。それも罪悪感やいいわけをあたまに描きながら(生活がまだ普通じゃないのに楽しんじゃダメ、って)

安心して休む、ってことはほとんどなくて。いま、こどもがある程度大きくなり、親は少し安定しいろいろなサービスが使えるようになり(それも動いて処理したからこそ)、少し気が緩んだから今限界が来たのだろうか?気が張ったまま気づかない、という方向で倒れるんじゃなく、すこしチカラを抜いてもいいよ、というダウンなのか、と少し思い始めてる。

エネルギーがないから効率的に、から エネルギーがないので丁寧に

余力がない人が、ひとより多くのことを抱えていると、消耗しないようになるべく効率的に済ませようとする。試行錯誤でそうなったというか。

もう疲れすぎて、、というときは見越して疲れる前にコンビニを利用するとか、料理は楽しさよりもシンプル、体調不良でも作れるもの、こどもでも作れるものの買い置き。空間を楽しむとかキッチングッズとかどうでもいいのだ。
体調の悪いときでも持てる軽いものならいい。

生活に関して全部そう。ほんとは感性的にこのみのものがあったりする。でも、しゃがんでごはんひとつ準備できなかったりして手放す経験のせいか、極力自分がいなくてもできるかたちにしないと怖いのだ。

だから、好き嫌いじゃない、効率的に・最小限に。動けないときにやることや、人に説明することが少なくて済むように。

そういった10年間。ほんとは、だれでもできるように効率化じゃなくて、自分だけのやり方を厳選して少しだけ、にすればよかったのだと最近感じています。

いろんなことを効率的に、うわべだけできるように、じゃなくて。別に、ごはん・みそしる・サラダ、が毎日だったとしても、それを丁寧に、じっくり食卓で味わう、そういう風にすればよかった。

過労で倒れてからほぼあんまり食べれない、メニューを胃が選んでしまう自分とこどものメニューは別にしているうちに、一緒に食卓を囲むというより準備して渡す、という感じが定番に。

まあ、いまはともかく倒れていた時期は横になってつまむくらいしかできなかった時期があるのでその名残ともいえるけど。

べつにそこを情緒的にこだわって後悔してるわけではない。別に大変じゃなかったとしてもライフスタイルで別に食事、というのもありだし。

ただ、血圧あげるため、とか食事がとれないのでとりあえず血糖値のため、とかじゃなく、「コーヒーを飲む」時間としてコーヒーを入れたとき、最近ちからが抜けるのです。

丁寧な時間。ほっとする時間をなんで蔑ろにしてきたのかなーって。それほど頑張らなくてもいいよ、というからだからのメッセージで、もう頑張れなくなっているのだろうか。

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