月並みだけどキラキラ系と同じ結論にたどり着く

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《イキカタ》

キラキラする必然性はないんだけど、そういう起業系のひとたちが言っていることと結局同じようなところに落ち着くなという今の結論。

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なぜ欝々しているのかわからなくなってきてしまった

欝々するべき、ってここにも決まりを作ってしまっていたのかも。こんなにいろいろあったのに(普通概念で考えると)欝々しないわけがない、とか。
そもそも、こんなにいろいろ=ネタ、でいいじゃないと思っているのに何で欝々したり泣き言言っているような自分で居なきゃならないと感じているのか。

それこそ、自分が自分で日本社会に過度に順応しようとしてしまっているのではないか。こういうことあったら悲しまなきゃ、こういうことあったら恥に思わなきゃ、これは我慢すべき点で我慢しないことは責められるとか。

自由で人一倍ありたいくせに、求められていないレベルまで社会に順応しようとしてしまっている。

ブラック企業と一緒でわからなくなってきてしまう

本当に合理的に「すべき」ことなのか、本当にブラックな企業側が要求していることなのか、自分が「すべき」にとらわれているのか、だんだんわからなくなってきてしまう。

全て「べき」で動きが取れなくなって、心が死にはじめてからようやく気づく。自分でブラック企業製造してた感じだろうか。

人のことは結構見えるのに、自分がとらわれていることは見えない。
きちんとしていよう、とする優等生意識がどこかにあるのだろう。だって、犯罪は別として、太ってたって体悪くたって、親戚中に借金してたって、酒たばこ大好きギャンブル大好き、人に迷惑かけっぱなしの人だって幸せそうな人は幸せ。

人に迷惑をかけなきゃ何やってもいい、とかのレベルじゃなくて、人に迷惑をかけ人のおかげで生活していても、キラキラ笑顔で毎日おくれている方が勝ちっていうか。

べき、を満たしてそれなりに安定していても、結局幸せではない

社会の「べき」に自分からあわせにいって、結果感情が動かないほど疲弊する。
キラキラの最上級の、という意味ではなく、生きるエネルギーのもととなる最低限の幸せ感を感じないのだ。
安定しているのだから贅沢だ、となるかもしれない。けど、安定していても生きている実感がなければ時間は無機質だ。
毎時間キラキラしていなければならないものでもないけれど、穏やかでもいいけれど、安定すべきは生活ではなく精神、なのだなとここ最近思う。
こころはざわざわ落ち着かず、枯れている。なにか思いつきで自分にご褒美買ったところで付け焼き刃というか。

結果、キラキラ女子と同じことを言います 「したい」を大事に 「幸せ」を感じることをしていいと自分で決めること

べきべき、はもう卒業で、「したい」を優先。そこに迷惑をかけなければ、という制約はもういらない。迷惑をかけて、他に人からかけられる関係でいられるように。
そもそも、そういうかたちが最初から好きだったはず。だから、別にビザ結婚でもよかったはず。

結局、たしかに日本社会は冷たい。無機質。じぶんごと意識が足りない。
そういうシステム的な問題はあるけれど、それと自分とは別。自分が「べき」で自分を縛っている。昔、占いが得意なシェアハウスのお姉さんに言われたことがあります。

「まわりにかごないのに、自分で鳥かご作って出られなくしてしまうタイプだね」
って。

その時もそうだ、と思いましたが、いままさに実感として理解できる。十年以上前なのに言葉があたまに残っていることにも意味があったのでしょう。

かご、なくしちゃうか、実は入口あけられるってことを自分自身で認めちゃうしかない。

幸せになっていいのを自分に許す、条件なしで

○○ができたら、とかこれが必要なくなったら、とか条件付けてじゃなくて、いますぐやりたいようにやればいい。
それだけのこと。現状は変えられるけど、自分ではなく現状という事実で。
そこに思いをのせる必要はなくて。
シングルマザーの私だから、○○しちゃいけないとか、くっつける必要はなくて、

・シングルマザーの私、からだ不調なりやすい私(事実)

・自分
はくっつける必要がない。

シングルマザーの私、がしてはいけないこと、するべきなことって社会の通念にそうことになるのだけど、「自分」がすべきこと、したいこと、は自分が決めていいこと。

属性なしで自分を生きる

属性がたくさんできて、それに自分でつぶされそうになっていたんだろうか。
そもそもの「自分」が強いタイプなのに、それを消すスキルも(自分でいうのもなんだけど)長年のサポートで長けている。

そうすると、周りも自分も属性での自分がほんとの自分な感じで社会が出来上がっていく。そこに息苦しさを感じていたのかな。

属性だらけで「自分」がいない。消えてしまいたくなる。=オリジナルを軽視しすぎていたという意味か。

弱者で戦おうとして、「何者か」になろうとした数年

急にはチカラを持てないから、何者か、に確かになろうと、属性をたくさんつけようとしたところはある。それは「生きるため」に仕方のない点でもあったけど。

でも、チカラで戦おうとしている段階で、すでに「強者の戦い方」の論理に従ってしまっているわけで、そこに対する矛盾はいつも感じていた。

でも、社会が「普通」の集まりだから、そうやってまずは闘ってから、自分なりの戦い方に変えて行こうと思ってたんだけど、そもそも「持てるもの」との闘いは身分違いの恋のようなもので身の程知らずなことで、ミラクルでも起きなければ難しい。(ネガティブな意味ではなく確率として。そのようなことがゼロだと悲観的に考えているわけでもない)

その間、わくわくワイワイしている強者相手に、戦うために自分を押し殺しても過ぎる時間。

これって勝手に、今の状態でも誰に遠慮することなく、「幸せ」をとりに行ったほうが結果、「勝ち」なんじゃないの?っていう。

「幸せ」はわからなくなってしまっているので、とりあえず「したくない」ことをしない方向から

感情を押し殺していると、欲しい・幸せ、キャッチの感覚が鈍くなってしまっているので、とりあえずしようとしているとストレスを感じてしまうこと「したくない」ことを極力しない。

だって、いまのぎりぎりの状態、それを考えると前頭葉がぎゅーっとなる。腰が動かなくなる。
ということは、からだがNOっていっている。

それを無視し続けての数年です。強制シャットダウンされての今なのかもしれません。

自分を再構築の時期です。じゃないと、枯れてしまいそうです。

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