国際結婚するひとはしない人より日本人気質が強いのではないかという仮説

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《しんぐるまざー》

もう離婚して8年くらいは経ってるので、まるで国際化していた家庭は忘れているのですが、その国際化家庭から離れると恐ろしく自分が日本人気質だなと思うのです。

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なかなか改善しない体調、抜けないトラウマ

もちろん、もともと虚弱体質のうえの過労、鬱、その他ですから、いろいろ体質改善しないとパーフェクトな体調にはならないのは置いておいても、環境は前よりいいはずなのに体調はなかなか戻りません。

調子よいときはいいですが、ことあるごとに浮かんでくるトラウマ。いったい何年引きずってるんだろう、この体、という感じです。

精神的には決着もついていて、共依存とか自己肯定感とか、そういうたぐいのものではなく、からだが先に緊張してしまう、当時の大変さを追体験して、という感じです。

最近思うのは、もっと「楽して生きたら」なおりが早かったろうということです。

べきべき星人

そもそも自由人なタイプだからこそ、国際結婚に導かれたところがあるのに、日本社会に戻ってきた瞬間から、「べき」に完全にとらわれてきました。

シングルマザーでも○○。からだが悪くても○○。
批判されないように、守りを固めて、指摘されるところを極力減らす。

こどものため、ではあって間違いだとは思ってませんが(社会はまだまだ冷たいので)エネルギーがある程度あるひとが「見栄」をはるためにいろいろ指摘されないように頑張ることと、マイナスのエネルギーから頑張ることとは全く違って、今回のように限界が来てしまっています。

からだは前より動いているはずなのに、前より悩みは少ないはずなのに苦しい。死にたくなる。鬱の症状なのだとは思うのですが、鬱と診断される前からこのような感覚はもっていたので、もともとの気質なのかもしれません。

食べ物をおいしく食べるべきではない

普通、の健康、普通のレベルになるまでは「おいしーい」っていう思いでものをたべちゃいけないとどこかで思ってました。

体調不良のときのケア、薬となるようなものには多少金額を使ったとしても(金額の問題というより幸福感)それ以外には余分なものは使ってはいけない意識がありました。

からだが調子わるいときに「おいしい」と思うものではなく、動けないから仕方のないもの、金額としては高くつくのにファミレスではなく、コンビニ。

幸福感を感じないものを選ばなくては、とどこかでいつも思っていたのです。

楽しいと感じてはいけない

ネットで動画を見るとか、お金のかからないことで笑ったり楽しんだり、それが分相応で、たとえばお金がかからなかったとしても、人ごみが嫌いなのでイベントじゃなくて、なにかお気にいりの好きなことがあったとしても、「普通」にならないうちは拒否するべきだ、という思いがどうしても出てしまうのです。

好きな俳優が出ているテレビ番組? まだ完全立ち直れてないのに楽しんじゃダメ、そう思ってしまいます。お金もかからないのに。そして、もっとガンバってない人だって楽しんでいる人もいるし、楽しんでもいいのもわかってる。もう体に染み込んだパターンのようなものです。

鬱の症状そのまま 欲求がない

もうそれを続けていると、「楽しい」「したい」と思うことがなくなるのです。
きっといじめなどで自殺をしたくなってしまうこどもたちも、好きなことをしろ、と言われてもそれが湧いてこないほど疲れてしまっているのだと思います。心が。

唯一、いま「たい」のはこうやって文章に「吐きたい」

もう頑張りたくなくて、いろんなことは淡々と進んでいくけれど、日々で精一杯かもしれない。新しいことがしたくない。脳のエネルギーを使いたくない。
漢方とかそっちの面からも少しは気をつけるけど、調べる元気もあまりない。

ただ、すごく眠い。だからそれにはしたがっておく。この眠気が過ぎたらなにかが変わる?そんな期待をもつ元気もない。悲しいのでもなくて、フラット。ゼロ。

奥からもやもやしたものが眠気とともに出るから、それこそ吐きそうだから、書く。
読まれる読まれない関係なく書く。

自分の備忘録にも。どうしていまなのか、とか。

長い間、共感はいらなかったけど、吐くところもなかった

みんないろいろあるのはわかるのだけど、いつも自分より安定した人が回りにいて、家族はその余裕がない環境で、外からの文句、内側の当事者の環境、両方のバランスを取るしかない立場に何年も。

怒りやイライラがなかったわけではない。たまには壁を壊したり。でもだからといって環境は変わらないのもわかっていた。気持ちが壊れないように壁を身代わりにしただけ。

誰かに向けようにも、小さいこどもに?病人の親に?生きているかどうかもわからない連絡を取ってない元旦那に?結局、体がいっぱいいっぱいなのにも関わらず、私は常に守らなければならない側にいたので、全力で怒りや文句を吐く場所などなかったのだ。

守るためにはまっすぐばかりではいられない

弱者というのは、本来サポートされるべきなのに、日本のいろいろな機関はサポートじゃなく見下げるだけのところが多い。そもそも自分たちが見下げていることすら気づいてないのではないだろうか。

自分が動けなくなったら?とか、自分ごとで考えたことがないのだろう。だから、上から目線で「知識の足りない、迷惑をかける一般市民」としてしか手続き中も見てないのだろう。使える制度があってもこちらから言い出さないと提供してくれないことが多い。そして、窓口の人すら詳細を知らないことも多い。
その窓口に、最後の助けを求めてきているひとたちだっているだろうに。

弱者は急に強者にはなれないから、制度を活用しつつどうにか普通になろうとするけれど、その情報を提供してもらうのだってテクニックがいる。なぜ弱って苦しんでいるがわが頭を使わなければならないのだろう。悪用する人がいるかもしれないけれど、何%だ?あとから摘発するようなシステムを考えればいいだろう。
やっとのことで辿りついているぎりぎりの人を何時間も待たせたり、たらい回しにしたり。行政や病院、お偉いさんが取り仕切っているところはどこもそうだ。弱者になったことがない人たちのやり方。

自分も弱者なのに強者と闘い、弱者のなかでは一番動かなくてはならない立ち位置にいるため助けてもらえない、そんな期間がたぶん国際結婚という、外国人という弱者(そうはおもってないけど日本で生きる上でということ)との時間も含めたら20年くらい。
そりゃ、これまで壊れなったほうがすごい、って自分で思っているところ。

投げやりでなく、もうなにもかもどうでもいい、理想像が意味をなさない今

○○をしたら、○○になったら、とゴールを決めて、ここまでは頑張ろう、と進んできて、特にそれってどうでもよかったのかもしれないと最近感じていて。

ただ楽しめばよかったのかも。体面のために無理したりストレス抱えたり怒ったりして動けなくなっている今と、適当に生きて体調改善せず動けないことと、何が違う?

もちろん、経験値やなにかの糧にはなっているだろう。でも、自己満足の達成だ。自己すら満足してないけど。

結局、幸せと感じる時間を「なにかゴールに必死に頑張る」だけの時間にしてしまった、まさに日本人。

頑張る=美徳で、そもそもや、結果や、幸せかどうか、なんて後回し。何十年もそれをやってから気づく。

そういえば、それがイヤで惹かれたのになー。自分を大切にしてから、家族、社会を大切にしていくのだ、ってハタチそこそこの若者(元だんな、出会ったころ)だって掴んでいる真理を日本人はなかなか自分のものにできない。だからこそ、幼稚でダンディな色気が出せないんだと思う。どこまでも他人軸。社会の「べき」に従って死んでいく。

そこから逃げたかった国際結婚の理由の一端ではあったけど、環境がそれじゃないと自由になれなかったわたしはやはり他人軸では自由になれるけど、心底自分で自由にはなれなかった日本人気質。そのまま海外に出ればよかっただろうか、いやたぶん日本人気質が抜けないまま環境だけ変わって別の意味で破綻していただろうと思う。

結局、理想像に辿りつけるのは最初から恵まれている強者という現実

卑屈になっているわけでもなく、一通り無理して闘ってみての実感。からだまで壊れるまで戦わなかったのがせめてもの救いかも。若干、こころは枯れかけているけど。

たとえば、外国人が生きやすい日本社会のコミュニティを作りたいと思ったとする。シェアハウスとかね。自分のいまの状態では、自分の生活をキープするだけでも普通以上のエネルギーが必要なのに、さらに、となると生活や自分を犠牲にせざるを得ない。
思い、があればというのかもしれないけれど、それは破綻したことのない人の台詞だ。保証人などがいないのに、どうにか貸し付けやビジネスコンテストにでも出す?どうやったって、背負うものが大きくなる。すでにいろんなもの背負っているのに。

理想にたどり着くのに、土台やサポート、金銭で習得できるスキルや効率、どうやったって落ちぶれた環境は、そこにたどり着く準備をしている間にエネルギー切れしてしまう。

NPOや支援、いろんな制度は弱者の味方と思いきや、、

相談窓口や、なにかの支援を謳う団体、もちろん機能しているところもあるけど、結局は「運営」がメイン。「助けてあげている」上流階級の人たちの団体が多い。

制度だって、情報弱者はたどり着けない。自分で探して問い合わせて、まっとうな窓口担当がいるときだけ話が進む。倒れているとき、弱者なとき、そんな余裕はないのです。だから、ただ我慢して時が過ぎるのを待つしかないことの方が多いのです。

機能している団体と、そうじゃない団体を見分ける余裕もない。本来ならマークでもつけておいてほしいけど、たぶんそういう資格、マークをつけたがるのは余裕がある団体で、実直にやっているところほど見かけに手が回らないから、HPだったりシステムだったりは後回しになっている。たぶん、儲けていないし持ち出しも。結局、頑張っている人はもっと頑張り、楽してる人は楽していることすら気づかないまま。

なぜ余裕のある人は、困っている人を助けないのか、とずっと思っていたけれど

苦しい、どん底のとき、動けるようになったら、余裕のある人に困っている人を助けるポイント(経験者しかわからないだろうから)を伝えるような役割をしたいと思っていた。お金も時間も余裕もある人が、ない人を助けるべきだと思ってたから。それは義務の意味じゃなくて、エネルギーの法則的な。余裕があるほうが足りない方に、って思い関係なく当たり前でしょう、って。

おそらくここは少し国際結婚の影響もあるだろう。もともと相対的に平等であるべき、って考えは私のなかの根本にあるけれど、海外の喜捨の概念は、優劣・貧富の問題ではなく、ただの事実として当然のこととして行われている。そういった視点が「人間として」普通だと思ったから。

でも、日本はダメでした。余裕のある人はさらに自己承認欲求のほうへ。どこまで行っても終わりがない。余裕がある人は、余裕のない人たちがいる世界さえ見えていないようです。そっか、無理なんだなー、弱者は結局声をあげられない場合、放置されるだけか。

声をあげられないとき、気づいてあげられるのが同じ余裕がない人間だと、助けられないのです。そういうふがいない思いしてくると、悔しさ・怒りが溜まってきます。

どうやったら、一足飛びにチカラをつけられる?
これ以上我慢をせずに。

ただ楽をしたいなら、そんな簡単にできるはずない、ってお叱りを受けてもいいけど、最大限に無理をしてきて、さらに余裕のあるあなたたちがやらないことをやらなきゃ、と思っている人間に、余裕のある人の文句はいらない。

弱者は勝てないのか、弱者の勝ち方があるのか。
無理をしない、新しい生き方考えるきっかけとして、いま体調が、気持ちがどん底なんだろうか、と思っている。

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