レアな事情というか、ひとつひとつはなくはないけど、そんなに一般的でもないこと。
まあ、ちょっと工夫は必要だけど、情報にたどり着けること。
だけど、それが複数絡まるケースってほかに存在しなくて、世の中どこかにはいるだろうけど、相談できる身近にいる可能性はミラクルに近くて。
話せるひとはいただろう。べつに隠したりもしなかったけれど、「えーすごいねー」で終わってしまうか会話。
ほんとは解決法を探りたいし、吐きたいし、泣きたい。でもそれができるところはひとつとしてなかった。
どんな相談窓口も、苦しいこちらが率先して内容を整理し、先導せねば、単なる手続きにもたどり着かない。
それ自体、困りごとを複数抱えている身にとっては、ものすごい労力を必要とするというのに。
頼りなさい、ひとりで抱えないで、 というはタダ。
それを受け入れる器量の機関やひとがないに等しいのに、どうしろというのだ。
だんだん、伝えることすら労力をかけずに諦めるようになるのだ。こうして、諦め、で毎日送るしかないひとたちがどれほどいるのか、世の中の管理側、支援側の人間はどれほど気づいているのだろう。
気づけないならその役職にいないでくれ、といつも思う。相談する側はギリギリのエネルギーを絞りだして、むかうのだから。プロの対応、知識がないひとはどんな期間だとしてもいらない。ニーズが満たされていないから。
親、きょうだいがいる家庭ばかりではない
わたしは一人っ子である。
トラブルが重なった時、ほぼ外出できない病気状態の親に頼ればよかったのか?自分の体調のアップダウンだけでギリギリなのに。
小学生のこどもに当たればよかったのか?ストレスのかわりの承認欲求とかで教育ママにでもなってバランスをとればよかっった?それともこどもを恋人のように頼って泣きつけばよかった?
変に他人を突き放せない共依存のこどもにそだってしまう。
結局頼りたくとも、共有もはけ口にもなる相手などいなかったのだ。
色恋でフラストレーションでも解消すればよかった?
自分も倒れてギリギリ生活、ギリギリ子育てしてるのにそんな元気や余裕、願望もエネルギーとしてなかった。
ただあまり調子わるくなく早く日々が過ぎることだけを考えて。
ほんとは、余裕なくたって遊び歩くひとは遊ぶし、そうしてたら、こんなに病まなかったかもしれないし、逆にみんなまわりもダメ人間扱いしてくれて、それぞれ自立というか自己責任が進んでいたのかもしれない。
中途半端にやれる、いい子というか、こなしてしまった器用貧乏感なのか、自己有用感を感じていたのかはわからないが(現実、ほかに対応できるひとがいないのも事実だったから)ただただ背負うものが増えて、増えてること自体に気づかないほど麻痺してしまう。
ほんとは別居したときに、こどもと二人だけ、すべて切り上げてしまえば、これほどいまバランスを崩すことも、普通、に戻すことも苦労はしなかっただろうと思う。
相手の在留許可を考えて、うまく離婚しようとし、親を捨てる(経済的に背負うという意味ではなく責任を負う立場として)ことができなかったことが、結果として、社会で戦える余力を逆に減らしてしまった。
だれかのためにどうにかしたい、というときはまず自分が強く、自分が賢く、自分がチカラを持たないと結局助けれないのは、そのときに学んだはずなのに。
どこかわかりきっていなかったんだろうか。どこかで、自分が強くなる、自分にチカラを蓄えることに向き合わず、他人を助けることで、満たしてきた部分があるのかもしれない。
ひとのために動いているからいま時間ない、余裕ない、と。
さっさと自分勝手に生きる。それが、人のためにも良かったのだ、と改めて思う。
いまは、パターン化した自分の癖に引き戻されないように。だから体調が悪いのかも。少し体調がよければ、またなにか自分以外の頑張る対象を見つけてしまうから。
まずは自分に蓄える。ずるくなる。疲れない。
それが先、ってからだに覚えさせる時期なのかもしれない。
愚痴る相手はいないけれど、おもいっきり自分を甘やかす、という形がいま必要なのかもしれない。怒りたければ怒る、泣きたければなく、夜遊びしたければ遊ぶ、借金したければする。
夜更かし、怠惰、適当、勝手。
バランスを取りすぎて、いいこちゃんだったところ、ぶっ飛んでもいい時期。
そもそも国際結婚だって、おばあちゃんになった時、孫に聞かせるネタになりそうだからおもしろそうじゃない?って思って、ビザのための結婚か??と思ってても別にいいや、って思ってたのに、なに最近おとなしくなってたんだろーな。
息苦しいのは当然かもしれない。勝手な人の勝手にやる、と普段真面目にやってきた人の「勝手」と違うので、「他人に迷惑をかけなければ」とかきれいごとは言わない。
ひとはだれでも、金持ちでも水道インフラなり道路なり、自分が作ってないところ使ったり、結局はひとに迷惑をかけたり役にたったり、相互に影響しながら生きているのだから。