家族と縁をきるということ

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《イキカタ》

罪悪感を抱えず切りきれるだろうかという不安はある。

いままでも繰り返してきたことだから。

だけど、今年初めくらいに感じたんですよね。もう限界が近い。

これ以上は無理だ、って。

からだや環境は数年前より改善していて客観的に見てみればそれに気づくはずなのに、ずっと家族に囚われてきたんだと思う。

とらわれてきた、ってきたといy過去形をいま自分で書いて、いつもとは少し違う感覚で今回は捉えている自覚がある。

状況が落ち着いてしまったら元の木阿弥にしてしまうのか。それは避けたい。

なぜってもう落ちたエネルギーから上がる気力がある気がしないからだ。

どこかでこれはムダ?と他者判断が入っている

たとえばこれを書いている時間。

自分がそんな強い欲求じゃないにしろ、したいとおもってすることはむだで、すべきことをしたあとにすることのような気がしてしまう。それはおそらく幼いころからの思考のくせだとおもう。

家庭の問題もだが、常に虚弱体質、なにかを楽しむなえにまず健康になるべきで、そこをやってからでしょ、と。

たしかに健康な方が挑戦できることも増えるし、具合悪くないように楽しめるだろう。でも、じゃあ障害もとからあるひとは楽しんだらいけないの?ずっと良くすることだけ考えているべきなの?と思って、もちろんからだにいいことは常にアンテナ立てていきたいけど、現状でたのしむことも必要だち理解してきている。

健康の方はそう、感情とは別に論理的に考えられる。

問題は感情が疲弊してしまうほうのべき概念だ。

批判は心配だと思っていたけれど、自分はこどもではもうありません

考え方は違えどおなじゴール方向は共通だと思っていたのですがね。

もしかしたら、ほんとの先のゴールはほんとにおなじかもしれません。でもそこに行くまでの道筋でエネルギーは枯渇してしまう。

なぜだろうって考えたんです。

じぶんはゴールまちあわせで、それぞれの方法や信念でたどり着けばいいと思うタイプ。

一方で家族はおそらく、すべてがおなじ真剣度や集中度でないと、意味がないと思ってしまうタイプだと思う。

だから一緒にゴールいけない心配における危機感の相違とかの心配だと思ってたんです。

でも、こんかい霧が晴れたように客観視できていて、これってある意味「宗教」とおなじじゃないか!っていう。

幼い頃からこの感覚はあったんです。

自分の意見あるんだけど、親もなにも強要した意見は言わないんだけど、おやの意見として耳にいれてしまったことと違うことを選んでしまうと悪いことが起きるんじゃないかという感覚。

無意識に判断基準は自分なくなってしまいますよね。深層心理dvとかってあるのでしょうか。

なにも強要されていないから自分の問題?うすうす気づきつつ繰り返して何十年。もう解放されないと。

パニック症状の原因は親子関係だと言われる

体調、ホルモン、東洋医学的な原因ももちろんある上で、これはなんとなく常に感じていたこと。

親と関わると、どんなにポジティブな話題でも、パニック的な症状になってくる。

息が浅い、交通機関や待ちに緊張する。

余裕がないから(予期不安状態)当然荒々しい喋りになるし、長い結論のない話はしたくない。その予期不安状態のまま長時間にエネルギーがもたないからだ。

今書いていて思ったのは、まずどこがわからないのか、ということ。

だだのイライラ、拒否感(話を聞きたくないとか)ではない余裕がないことがパニック持ちでない相手には伝わらないのか。

もちろん説明はしているのだけど、いいわけに聞こえるのだろうね。

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